2015年01月21日
今までこういう発想はなかったのですが、小さいキーボードを持って出掛ければ外で音楽が作れるじゃないかと買ってしまったのが写真のLAUNCHKEY miniです(一緒に写ってるカエルは全然関係ないですが知人のタイ土産)。普段ノートPCを持って出掛ける事はありましたが、鞄にキーボードまで入れて出掛けられるなんてすごいんじゃないかと一人興奮してしまいました。楽器を持ち運ぶのとはまた違った、「どこでもなんでも作れます!」的な感じがすごいなと勝手に思っているわけですが、家でやる作業を外でも出来るというのは正直助かる部分も多いですね。また周りの環境が違えば出てくるものも違うんではないかと、豊かな妄想もしつつ喫茶店とかでお茶を飲みながらは度胸がないので出来そうもないですが、手始めに天気のいい日に公園とかで何か作ってみるのも面白いかと思いました。まあでももう少し、外が暖かくなってからですかね。それまでは家の中で…いやそれじゃ意味がないのか。
2013年09月9日
例えば今ふいになにげなくテレビをつけてみても、映像の効果として音(または音楽)は切り離せない関係のものだと感じますが、いつからこうそれを意識し始めたのかとふと考えてみました。たぶん幼い頃アニメなどを観てもその登場人物やストーリーに夢中で、「この音がかっこいい!」なんて事は思っても無かったでしょうし、ましてやそれを誰かが色々と工夫をこらして作っているなどとは想像すらしてなかったように思います。これを意識するようになったきっかけはごくありふれたもので、小学生の時だったかその当時の友人がタイトルは忘れてしまいましたが何かの映画のサントラを持っていて「え?世の中にはそういうものがあるの?」と思ったのが始まりだったように思います。
今思えば馬鹿みたいな話ですが、逆を言えばそれと気付かせないほどその当時の映像と音が自然と体に入って来ていたということでしょうか。一度それに気が付いてみると、曲ではなくても例えば「ドラえもん」が道具を出す時の音や「天空の城ラピュタ」で飛空挺が飛んでいる音を「すごい!」と思った記憶があります。この世の中には存在しないイメージの音を表現して尚かつ自然に聴かせるというのは、今もそうですが驚きと凄さを感じさせられますね。
その発想力と工夫、言葉は間違っているかも知れませんがそういった大きくも小さくもない「発明」を延々と繰り返し、今現在のテレビや映画が出来ているという事。これは音だけに限った事ではありませんがそこには膨大な時間と、当たり前ですが人の手が掛けられているという事。真新しいものは出てきにくいと言われる昨今ではありますが、改めてそう思うと今現在もどこかでそういったものが産声を上げている様な気がします。
そしていよいよ私どもが催しているMovie Fes『Discovery Nippon』のエントリー受付が今月いっぱいで締め切りとなります。また新しい出会いを楽しみにしながら、皆様の奮ってのご参加お待ちしております!
動画フェス http://www.moviefes.com/
2013年09月2日
音楽に置き換えてみると
アレンジの効能1からの続き…
小説やなにかが原作の映画とは違い、メロディだけを知っているという状態はなかなか無いですが、音楽で言えば作曲者が出してきたメロディにアレンジを加えて行くという作業が一番近い様に思います。音楽を聴く時に一曲という括りであまりメロディとアレンジを切り離して聴くということはないと思いますが、個人的にそういう風に切り離して初めて聴いた曲は(意図的ではないですが)ピンクレディーというデュオの「UFO」という曲でした。多分どこかで一度は耳にした事のある曲だと思いますが、あのメロディにあのアレンジというのは何気なくではなく改めて意識して聴くと、衝撃が走ったのを覚えています。イントロを聴いただけでもすぐにその曲を思い浮かべられるというのは、もしかしたら音楽で言う所のアレンジの一番の成功例なのかも知れないと、個人的に今も思います。
また一方で映画で言う所のリメイクは音楽で言う所のカヴァーと意味合い的には同じだと思いますね。こちらの方が昨今なじみが深いと思うのですが、そのカヴァーしたアーティストの個性がよく伺えると思います。原曲を知っていて、もしくはカヴァーでその曲を知るとまちまちだとは思いますが、大体そのどちらのアーティストの個性も両立しているものが多いようにも思いますね。リスペクトといいますか「原曲を大事にしていますよ」という気持ちが何かしら伝わってくるものが、良い作品たらしめている様な気もします。
音楽に拘らずアレンジひとつでこうも作品の善し悪しが変ってくるというのは、改めて怖い事でもありますしまたその大切さをしみじみと考えさせられますね。
2013年07月21日
原作のある作品
原作を知っていて映画を観たらがっかりした、なんて体験を皆さんもお持ちではないでしょうか?私も最近まさしくこれを久々に体験したのですが、なんでしょうあのがっかり感は…。ハードボイルド小説が原作のその作品、タイトルは伏せますが内容を知っているし、始めの期待感が高いというのもあったのでしょうが、途中から悲しさすら覚えたのは初めてかも知れません。観終わった時にあまり有名なタイトルではないので普段行くレンタル屋さんでは置いてなかった事、探しまわったあげくに少し遠いレンタル屋さんに一本だけ置いてあるのを知ったときの喜び、実際に足を運んでみたらその一本だけ置いてあるのが借りられていた事…、せっかく来たので帰りに気落ちしながら初めて行く店で大盛りラーメンを食べた事、それが多すぎたこと、数週間後に行ってやっと借りられた時の喜び、そして同じラーメン屋に入って普通盛りを頼んでもやっぱり多かったことやら様々なそこに至るまでの過程をただ思い出していました。
アレンジのセンス
いや難しいですね、この手の類いはいつもそう思います。ただ逆に後から原作を知ってどちらも良かった、もしくは原作よりも面白かったなんて作品も沢山あると思います。普段あまりこの監督がとかは意識する方ではないのですが、こういった原作のある映画を観た時は特にその監督の個性、とりわけアレンジのセンスが問われているように感じます。原作に忠実にやるのか、壊れるくらい自分の個性をぶち込むのか、ただその映画の尺に納める為にどこを大事にしてどこを切り捨てて行くかというのは、原作があるものの方がやはりその人それぞれのセンスが良く分かると思います。実際に自分がやれと言われれば怖い作業ですが、原作を知らなくてもその映画単体が面白いと思えるものがきっと最高なのでしょう。
…その2へ続きます。
2013年03月11日
先日、とても懐かしいものを引っ張りだしてみました。それは何かというと、自分が子供だった頃のアルバムです。見る機会も無いのになぜか、その一冊だけを手元に置いておいたみたいで。まあそこにはあけっっぴろげな生まれたばかりの自分が写ってたりしたのですが、記憶としては全然憶えてない頃のものですね。随分と色あせた写真をパラパラ見ていると、昔住んでいた家の周りやまだ若い家族、どこだかよく分からない観光地ともう少しレトロな洋服、そしてその瞬間を納めておこうとカメラを持つのはたぶん父親。見ているうちに懐かしいというよりも、自分の知らない時間を写しているその写真達に、なんだか不思議な気分になっていました。
多分同い年くらいの父親や母親に抱き上げられている自分、どんな気持ちだったのだろうかと思います。彼らにとっては思い出の、僕にとっては知らない時間。ただその何気ない優しさに溢れているような瞬間に、囲まれた時間を過ごしていたのかとそんな事を思いました。色々時間は過ぎて行き変ってしまったものもあるのだろうけれど、何かそんな事を思った時にふと、その先端の「現在」すら愛おしく感じられました。普段何気なさすぎて気にもしていない事にも、なにかしらそこに辿り着くまでの時間や想いがある、そんなことに改めて気付かされた気分ですね。
皆さんもそんな身近な再発見を、してみるのはいかがでしょうか?